アザレア
序 別れの挨拶
「エレノア」
男は硬い声音に失望を滲ませながら呼びかけた。
「これで全部なのか。本当に」
古びた賃貸の一室。ひとりならともかく、ふたりで暮らすにはあまりにも手狭な部屋にずかずかと入り込んで、男はいらいらと足を踏み鳴らした。男の後ろに控えていた喪服姿の女は、自分に投げかけられたその問いには直接答えずに、戸口に立っていた姪へ、盗み見るように視線を寄越す。
「ええ叔父さん、それで全部です。換金したところでたいしたお金にもならないようなガラクタしかありません。母の葬式代に、宝石だの靴だのドレスだの、ありったけ売り払ったので」
実際、その狭い貸し部屋にあるのは備え付けの古びた家財と、申し訳程度の日用品だけだった。これ見よがしに開けられたクローゼットにも、普段着の古びたドレス一着だけが、ぽつんとかけられている。質素というよりもっとひどい有様だった。だが、よりによって葬式の帰りに、この男が半ば押し掛けるようにして故人の部屋に立ち入って、金目の物でも持ち帰ろうと思っていたのであれば、その思惑は外れたことになる。そう思うと、アザレアは胸のすくような気持ちがした。
アザレアの返事に、部屋の中央で呆然と立っていた男は苦々しく応答した。
「こんな部屋で、これからどうするつもりだった?」
「そうですね。私も母の後を追おうかと」
「アザレア!」
叔母の非難めいた呟きに、片目の視線だけで返す。
「冗談です」
「滅多なこと言わないで。姉さんがあなたを置いて、一体どんな気持ちで亡くなったか……」
母がどんな気持ちで亡くなったかだなんて、あんたが知ってるわけないじゃない。
アザレアは舌先まで出かかった嫌味を危ういところで引っ込めた。
「形見のネックレスすら親族に毟り取られるくらいなら、先に有用なことに使っておくまでかと」
「口だけは達者だな」
「生前一度もお見舞いにいらっしゃらなかった叔父さんのことですから、故人の遺品整理なんて、さぞ煩わしい仕事でしょう。お望みどおりにしてさしあげたまでです」
「わかってるだろうが、お前を養う余裕などうちにはないぞ!」
苦々しく口許を歪めて吐き捨てるのを、鼻で笑ってやりたくなった。病床に伏した母を、金銭的にも物理的にも助けてやる素振りすら見せなかった叔母夫婦に、もとより期待などしていない。この上媚びを売って身柄を引き取ってもらおうなどと、考えるだけでも吐きそうだ。はやく帰ってほしい。
「あなた、そんな」
「十九やそこらだろう。雑用婦でもなんでも雇ってくれる年だ」
「けど……」
言い淀む叔母が言外に何を言いたいのかは、この場にいる三人には明らかだった。
「片方目が見えなくてもできる仕事くらいある」
アザレアは自分の右目の上に被せられた不格好な眼帯のことを思った。いつからか、光を受け付けなくなった右の眼球を、自分ですらまともに見た覚えがない。
アザレアの右目は、目を閉じた瞼の上からでさえ、日の元に晒すと腫れあがるほど痛んだ。その強烈な痛みへの拒否反応で、幼い頃から眼帯を外すのに抵抗がある。もしかしたらもう視力も失われているのかもしれなかったが、両手も見えないほどの暗闇でなければ、恐ろしくて目を開けることができないのだった。どんな医者にかかっても無駄だったのに、娘を高名な医者に見せる資金のため、母は自分が体を壊すほど働いていた。
今更腫れ物に触るような物言いをしなくたっていいのに。要は、まともな職など無理だろうと言いたいのだ。まともじゃない職なら就けるだろうという意味でもあった。
「これまでも働いてはいたんだろう? 住み込みででも働けばいい。こんな状態ではどうせ暮らしていけまい」
「ええ、どうぞ、おかまいなく。そのつもりですから」
事実、もうこの部屋に住み続けることはできなかった。近所の店から請け負ってやっていた針子の仕事は、家にいて母の世話をしながらであれば最適だったが、食いつなぐには安すぎる。それにもう約束の期日が迫っていた。母の最後の姿のために手持ちのお金はすべて使い果たして、来月の家賃を払えなかったのだから、退去するしかない。部屋を空っぽにしてあるのはその意味もあった。自分の荷物は旅行鞄ひとつに既にほとんど詰め込んでいた。
思うような収穫がなかったことに苛立っているからか、殊勝さの感じられない姪の態度が気に障ったのか、両方かもしれない。彼は嘲るように言った。
「何なら、そこらの街角にでも立っていればいい。その見た目なら、哀れんでくれる奴もいるだろう」
「あなた!」
「なんですって?」
カッと顔に血が上る。街頭娼婦は最底辺の職業だ。血のつながりがないとはいえ、まさか自分の姪に向かって身売りでもすればいいなどと言うとは思わなかったアザレアは、その短絡的で下世話な侮辱に、途端に拳が震えるほどの怒りを覚えた。
「何を言うかと思えば……よくも」
「おい」
「馬鹿にしないでよ!」
咄嗟に戸口の傍の机の上に置きっぱなしだった果物ナイフを手に取る。母の看病のためにいつも果物を剥いてやった、手に馴染んだそれは吸い付くように手のひらに収まった。思い出のつまったうつくしい道具。
自分が手入れをしていたのだから、切れ味までおそろしくよく知っていた。鞘を抜き、その刃を首に突き刺して、そうすればすべて終わるのではないかと一瞬脳裏を過った想像は、思いのほか清々しいものだった。たったひとりの、やさしい母を看取ったのと同じ部屋で。こんなくだらない人たちの、目の前で死んでやる。そうすれば……
「アザレア!」
刃物を取ったその行為にぎょっとした叔父は刺されるのではないかと後ずさり、叔母は止めようと駆け寄った。エレノアの伸ばされた手を避けようと戸口の後ろに踏み出したその時。
「あのう」
のんびりとした男の声が背後からかけられ、アザレアは咄嗟に反応できず固まる。踏みとどまれずたたらを踏んだ叔母の体をもろに受け止めてしまい、衝撃でナイフを取り落とし、転倒した。幸い頭は打たずに済んだが、背中から打ちつけた衝撃で息が詰まった。
「すみません、その、これはただごとではないと思って、ドアが開いていたものでつい」
アザレアは仰向けになったまま、視界の端で突然の闖入者が果物ナイフを拾い上げるのを捉えた。白い手袋に、黒い上着の袖。アザレアは体の痛みに呻きながら、視線をその手から肩、首へと上へ動かしていく。
「こちら、オルセンさんの御宅でお間違いなかったでしょうか? わたくし、この度亡くなられたローラさんのお父様の知人でして、お悔みを述べに参りました」
「それは、どうも……」
仰向けになったまま返事をした。
「この上なくいい頃合いで」
「お墓の方へは先に伺っています。間に合いませんでしたが」
こちらの嫌味に気付かなかったように上品に応答したその男は、柔和に微笑んでいるが、いくつだかよくわからなかった。きっちり撫でつけた灰色の髪に、一見しただけでわかるほど仕立てのよい外套。裕福な人物に特有の余裕のある所作で、ナイフをくるりと一回転させると、机の上に音を立てずに置いた。
彼は叔母が体を起こすのを親切に手伝ってやり、その下敷きになっていたアザレアにも手を差し出した。起き上がる時、彼のピカピカに磨きあげられた革靴が目に入った。
「あなたはローラさんの娘さんでしょう? 赤ん坊の時に一度お会いしたことがあります。大きくなられて、ローラさんによく似ておられますね。まだお若かったのに、残念なことでした」
無論アザレアはこのような紳士を覚えてなどいなかったが、その口ぶりからおそらく事実なのだろうと思われた。アザレアの癖のある濃い茶色の髪は母譲りだったからだ。母はそれを自慢にしていて、娘にいくつも自身の美しい髪飾りを譲ってくれた。それも、全部売り払ってしまったが。
「一体、どちらの……?」
「やあ、申し遅れました」
訝る三人の視線を一身に受けながらも、男は言い淀むことなく自己紹介した。
「モーリス・ハリントンと申します。ローラさんのお父様……ライアンに、以前世話になったことがありまして。風の噂でローラさんの訃報を知りましてね」
手袋をとって握手を求められ、アザレアはそのまま手を差し出そうとして思い直し、いちどスカートでよく拭った。気にしなくていいと言わんばかりに力強く握り返される。
「もしお時間があれば、少しお話できないかと思って伺ったんです」
モーリスと名乗ったその男が述べた内容を、手短に要約するとこうだ。
もし行くところに困っているのなら、人が足りていない住み込みの働き口を知っている。そこは由緒正しいお屋敷で、待遇は保証すると。そういった話をアザレアに紹介するのは、祖父に借りた恩を返す機会を伺っていたというのが理由だった。母が生きている間にそうと知っていれば、何か他の形で返せたかもしれなかったのですがと悔いた様子で付け足した。
いかにも裕福な紳士然とした男が丁寧に説明するものだから、傍で聞いていた叔母は一も二もなく賛成した。
アザレア、いいじゃない。もったいないくらいいい話だわ。
モーリスの提示した給金の金額を聞いて、むしろ自分の娘を行かせたいと声を弾ませたほどだ。突然降って湧いたうまい話に、胡散臭そうに男の格好をじろじろと眺めていた叔父もまた、反対するはずもなかった。
モーリスは親戚の方がいらっしゃるなら話が早くてちょうどいいと微笑んだが、目が笑っていないのにアザレアは気付いた。おそらく扉の向こうで、いつ入ったものかと逡巡しているうちに、三人の会話を聞いていたのだろう。言外に滲ませたどことなくアザレアを庇う空気に、残りのふたりは後ろめたそうに萎縮していた。無理矢理場を明るくしようと努めて余計に空回った叔母の質問にも、男は当たり障りなく返していたが、そのうち簡単に話がまとまると、彼は礼儀正しく会釈をして、馬車に乗り去っていった。
全員追い返してようやくひとりになると、アザレアは借りた喪服を脱いで、階下のおばさんに返しに行った。恰幅のいいおばさんの喪服は、当然アザレアには大きすぎたけれど、普段着で列席するわけにいかなかったのだ。喪服を買ったり借りに行ったりする、暇も金も無かった。おばさんはアザレアにねぎらいの言葉をかけて、家族を亡くしたばかりのアザレアに夜ご飯を一緒に食べようと誘ってくれたが、到底そんな気分になれず、気遣いに感謝しながら丁重に断った。そうして部屋に帰ってくると、一気に緊張が解けて、もう何もする気にならないほど疲れきっていた。
さっきの男の話が、すべて本当だとして、いや、仮に嘘だったとしても、もはや断る理由などどこにもなかった。少なくとも、これ以上ここに留まることはできない。
母のいなくなったあとの自分の人生について、まるで底知れぬ穴が空いたように何一つ思い描けないままのアザレアにとっては、今日のことすべてがまるで夢の中にでもいるようで、何もかも漠然としていた。体を引きずるようにして、慣れ親しんだ殺風景なバルコニーになんとか出る。母の棺の献花のうちから一輪だけ持って帰った薔薇を、花瓶代わりに活けていたコップから取り出して、バルコニーの手すりに体を預けるようにして眺めた。
帰ってきてすぐ、あんな騒動になる前にすばやく水に漬けてはいたものの、花びらの先はすでに痛み始めていた。眼下に街を見下ろしながら、その肉厚な花弁をそっとちぎって、指を離した。ひらひらと風に踊って舞い落ちる軌跡を目で追いながら、一枚ずつ繰り返す。
お母さん。
声に出さずに呟いた。
胸がつまって、途端に鼻の奥がつんと痛くなる。もう、散々泣いて、とっくに枯れ果てたと思ったのに、涙はいつまでも、とめどなく流れるものなのだと、ここ数日ですっかり思い知らされた。
明日の朝、モーリスが迎えに来る。無くさないようにと、まだ幼い頃に母がリボンを結んで渡してくれた、この部屋のふたつの鍵を返したら、ここへはもう、戻ってこない。おそらく二度と。
あなたが生まれてきてくれてよかったと、何度も言って、抱きしめてくれた。その愛に数えられないほど慰められてもなお、アザレアは、信じられなかった。自分の存在が母にとって、枷であったことこそあれ、よかったことなんかひとつもない。消えた父親のぶんまで愛情を注いでくれた母の、痩せ細って荒れた手に、最後にレースの手袋をさせて埋葬した。それが何日かの飢えを満たせるくらいの金額でも、そうせずにはいられなかった。
こんなことしかできない。でも、どうか安らかに。
頬に流れる涙を時折拭いながら、薔薇の花がすっかり形を失ってしまうまで、花弁をちぎり続けていた。