アザレア

第一章 薔薇の館(2)

「ずれ……?」 「おかげさまで、『渡り』は無事に終わりました。正確には十二時十二分、人間界と魔界を繋ぐ門が開き、そして閉じられた。ここはすでに、あなたが生まれ育った人の世界ではありません。だから馬車から降りてどれだけ来た道を歩いても、あの街へ辿りつくことはできません。次に門が開くのは半年後です」 「何を……何を言っているのか、ちっとも……」  要領を得ない話の中でひとつだけ理解した。  帰れない。  それを告げられた瞬間一気に脱力した。  ああ、なんてこと。  膝から力が抜け、先ほどまで必死に開けようとしていた扉を背にしてずるずると座り込んだ。モーリスは意気消沈したアザレアを見て、どう言ったものかと慎重に吟味しているらしい様子だった。 「あなたは神を信じている?」 「……ええ。広義にはね」  返事をするのも億劫だったが、ここで返事をしなくても状況は変わらなかった。 「広義にはとは?」 「神様が本当にいてくださるなら、なんで得体のしれない男が得体のしれないところに私を連れていこうとしてるのを止めないのかって意味」 「なるほど。では悪魔は?」 「悪魔?」  悪魔を信じているかと問われるのははじめてのことだった。 「悪魔っていうのは、人間の悪心とか欲望とかの擬人化でしょう」 「ふむ。なるほど。そう、人の世に広く知れ渡った悪魔とは、そのような認識でしょう。しかし、悪魔という存在は確かに実在のものです」 「実在?」 「ええ。人間の方には信じがたい話かもしれませんが……」 「いきなり何の話なんです?」  アザレアは馬車の床に座り込んだまま、もうどうにでもなれという気持ちで会話を続けた。 「あなたを混乱させるだろうと思って黙っていました」  なんだかしおらしい態度で懺悔しているが、要は真実を話してアザレアがごねたら困るからという理由でここに着くまで黙っていたというだけの話だ。  思い返せば幸運すぎるというか、うすうすこんなにうまくいくはずがないと思っていた。母が亡くなった途端に、渡りに船とばかりに住み込みの仕事が見つかるなんて、これまでだって底辺の生活を送っていたような人間なのに、急にこんなうまい話に、辿りつけるわけがない。弱者というのはいつでも搾取される側だ。アザレアは眼帯をつけた自分の右目に不意に手をやって、苦い気持ちになった。 「神だの……悪魔だの……もう結構です。何もかも。今すぐ帰れなくていいから、帰り方を教えてください」 「半年間でいいから働くのはどうですか?」  モーリスは慌てて言い繕った。 「あなたを騙すような真似をしたことは、心の底から謝ります。ただ、あなたに仕事を紹介したいと思っているのも、屋敷の人手が足りないのも事実です。もちろんここの暮らしが気に入らなければ、次に門が開く時に人間界へ戻っていただいて構いません。安全に送り届けると誓います」  彼はアザレアに向かって手を差し出して、再び座席に座るよう促したが、アザレアはまだ変身した彼の姿を気味悪く感じていて、その手を取ることはしなかった。 「おかまいなく……少し混乱しているので……」  アザレアは呼吸を整えてから、自分の旅行鞄を抱いて再び座席に座った。 「あなたが動揺するのも当然です。すみません、ライアンはそれほど戸惑わずに受け入れてくれていたので、すっかり失念していました」 「祖父は知っていたんですか? あなたが人間じゃないと?」 「ええ。彼は我々のような人外の生き物に寛容でした」  アザレアは祖父のことを思い出そうとしたが、記憶の中の彼は、いつもにこにこした普通の老人だった。アザレアがまだ幼い頃に亡くなっている。郊外の屋敷に住んでいて、動くのが億劫らしくいつも安楽椅子にかけていた。なにしろ子供だったので、覚えているのもそれくらいだ。 「我々の存在を感じることができる人間は、そのことを他人に話そうとはしません。自分の目で見ない限り信じられないとわかっているからです。ここは今まであなたが暮らしていた世界とは似て非なるものです。我々も見た目は似ていますが、人間とは性質が違う種族です」 「それで、その……変わったんですか?」 「そうです。人の世にいるときは仮の姿をとります。このままだと若干異質なので、溶け込めるように工夫しなければいけません」  そう言われてモーリスを眺めたアザレアは、今朝まで覚えていた彼の容貌と、つくりはそう変わらないものの、なんとなく瞳に違和感があることに気付いた。虹彩の色味が常人と違うのか、妙に爛々としている。それと、頬骨が高く、耳がつんと尖っていた。 「なるほど……」 「そして人が人の王を戴くように、魔族は魔族の王を戴く。この世界には、魔王陛下を頂点に、七十二の『柱』と呼ばれる悪魔の序列が存在します。彼らはそれぞれが領地の王となって、各領を統治します」 「……つまり、ここは悪魔の世界だと?」 「人間に言わせれば、まあ、そういうことになりますね」  あまりに荒唐無稽な話で、アザレアは理解が追いつかなかった。悪魔? 物語やおとぎ話の中だけの存在だと思っていた。先ほどモーリスが神とか悪魔の存在についてあれこれ言っていたのは、こういうことかと合点がいった。 「あなたを混乱させるだろうと思って黙って……」  最初の言い訳を繰り返すモーリスを見て、アザレアは頭痛がしてきた。 「ええ、おおいに混乱しています……それでは……あなたは人間の世界にはなぜ? 悪魔というものは本当に人を惑わせているんですか?」 「まあ、そういった目的の者もいるようですが、私は違いますね」  本当は何をしていたのかまでは説明せず、曖昧に濁す。彼はこうした迂遠な言い方しかしないのかもしれないなと思いながら、アザレアはひとまず話の続きを促した。 「屋敷に着くまでに大事な話をしておかなければいけません。我々は今、魔界の序列三位にあたる、アスタロト公爵様の屋敷へ向かっています」 「序列というのは、上流階級みたいなことですね?」 「そうです。この世界で陛下を除いて三番目に位が高いということです」  そう聞くとすごい話だ。それでは、この男は思ったよりずいぶん偉い人に仕えているのだ。 「……お屋敷っていうのは、危険じゃないんですよね?」 「当然。私の紹介で仕事をしてもらうのですから、身の安全は保証します。あなたは恩人の血縁者だし」  住み込みで働くことにこれまで抵抗はなかったが、悪魔の屋敷と聞くと身構えざるを得ない。この男もまだ信頼できるわけではない。だが、祖父と知り合いだったのは本当のようだ。安全を保証すると言っているのだから、着いてすぐとって食われるようなことはないと思いたい。なにしろ未知の世界だった。 「怒っていますか?」 「……腹は立ちますが、仕方ありません。行くところもないし。半年経たないと、帰れる目処も立たないんですよね? 別にいいです今更。危険な仕事じゃないなら、働きます」 「ありがたい。もちろんですよ。こちらも結構のんびりしてよいところですし。ちょっと息抜きに、辺境に来たとでも思っていただければ」  承諾したことでモーリスが明らかに胸を撫で下ろしているのを見て、アザレアはもうひと暴れして嫌味のひとつでも言ってやりたくなったが、ひとまず同じ馬車に乗っている間はおとなしくしていることにした。  彼は他にもこの世界を取り巻くいろいろな情報を教えてくれた。おおまかな地理や、基本的な常識――たとえば、人間はほとんどいないとか、水は煮沸して飲めとか――ちなみにこの世界にはこの世界の言語があるらしく、それで書かれた新聞を寄越してくれたが読めなかった。発話については、何か便利な道具があるらしく、普通に喋るぶんには意志の疎通に問題ないという。  説明を聞くほどに、馴染むにはやや時間がかかりそうだった。不安を感じつつ馬車の外を眺めると、風景が変わってきたことに気付く。いつのまにか果樹の植わった道に沿って走っていた。このあたり一帯がもうすでに屋敷の敷地に入っているとモーリスが説明した。窓の外に湖と、大きな石造りの建物が現れ、あれがお屋敷だと言うのでアザレアは驚いた。アザレアの感覚ではあれはどう見ても城だ。  しばらく走り続けた後馬車はなめらかに減速し、窓の外からコンコンと音がして、到着したことがわかる。先ほどはびくともしなかった馬車の扉を軽々とあけ、モーリスが先に降りた。アザレアはおそるおそる降りた直後、まず自分の乗ってきた馬車それ自体もずいぶん様変わりしていたことに気付いた。乗った時はただの高級そうな馬車だと思っていたが、今はきちんとした紋章の入った絢爛な装飾の馬車に変わっている。これも帰ってきて、《《変身》》したのだろう。車止めから屋敷の方を見ると、広大な庭園が広がっていた。これは建物の入り口まで辿りつくのにも馬車に乗っていたほうがいい気がしていたが、モーリスによるとここは基本的にはお客様を迎えるための正門で、普段はもっと乗り降りの楽な勝手口を使っていいらしい。今日は特別だと言っていた。  荷物を抱えて広大な庭を突っ切り、まずは使用人が生活する建物へ向かうことになった。その道中も、美しく整えられたさまざまな庭木がアーチを作っていた。花の香りは甘く、しかしどこか非現実的な濃さがあった。多種多様な薔薇の生垣が多かったが、どれも見事に咲き誇っていた。 「見事ですよね。魔法がかかっているので、一年中花が咲いています」 「魔法?」 「はい。我が君の魔法です」  おとぎ話でしか聞いたことのない概念だ。いよいよ自分の常識では計り知れないなと思いながら、アザレアは汗ばんだ手で自分の鞄の持ち手をしっかり握り直した。  モーリスに導かれながら煉瓦造りの建物の中に入っていく。ここで一般の使用人が寝泊まりしているらしいが、ここだけでも相当大きな屋敷だ。百人以上の使用人がいると聞いていたが、今は皆働いているようで中は静かだった。内装は落ち着いていて、無機質ではないが飾り気のない感じで、悪くない。  入ったところの広間でしばらく待っていると、先に行ったモーリスがひとりの女性を伴って戻ってきた。  彼女は、アザレアが推定したところもう六十を超えていそうな老婦人だったが、背筋がピンと伸び、足元まで隠れる長くて黒いドレスを捌きながら歩いてきた。こちらを認めるなり、厳しい目つきでアザレアを上から下まで眺めた。それは別にじろじろと品定めするような視線ではなかったが、何か気に入らないところがあったらどうしようと、アザレアはひやひやした。この人もまた、老いてはいるが少し変わった虹彩の色味をしていて、やはりモーリスと同じで、人間ではないのだとわかる。 「アザレアさん、こちらが使用人長のマチルダです」 「どうも。アザレア・オルセンです。モーリスさんのご紹介で伺いました」  頭を下げてお辞儀しようとしたところで、彼女が握手を求めて手を差し出したので、おずおずと握り返した。 「マチルダ・バーロウです。十九歳と伺いましたが、間違いないですか? それと、あなたは人間だと」 「そうです」 「少々多忙な仕事になりますが、よろしいですか?」  アザレアは急いで付け加える。 「あの、はい。体力は問題ないです」  子供の頃から満足に食べられる機会が少なく、長じてからは食費を切り詰めてきたのもあって、アザレアはずっと痩せぎすだった。背もそれほど大きくないし、いつも十六か十七くらいに間違われていた。特段それで困ったこともなかったが、労働力にならないと思われるのは困る。 「その眼帯は、怪我ですか?」  直截な質問に、アザレアは一瞬言葉を詰まらせた。 「いえ、持病で……でも、働くのに不都合はありません」 「わかりました」  特に追求されることもなく了承され、緊張した体がほっと緩んだ。 「生憎、旦那様は今、長期の出張で不在です。が、モーリス卿の紹介でしたら身元も確かでしょうから、雇い入れても問題ないでしょう。こういった屋敷での仕事の経験はありますか?」 「いえ」 「では下働きから仕事を覚えてもらうことになります。構いませんか?」 「大丈夫です」 「我が君はいらっしゃらないんですか?」  これにはモーリスの方が驚いていた。 「ええ。モーリス卿、この件について後ほどお伝えすることがあります」 「今でも構いませんが」 「長くなるので、後にしてください。彼女に屋敷を案内する必要もありますから」
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