アザレア
第一章 薔薇の館(3)
モーリスは承知して去っていった。マチルダはアザレアに着いてくるよう言って、使用人棟の階段を上っていく。木製の手すりはよく使い込まれていて、角が飴色に変化していた。三階の奥の部屋まで案内される。
「あなたの部屋です。荷物はこちらへ。基本的にはふたりで一室を使ってもらっています。同室の子はまた後ほど紹介しましょう」
ドアを開けたら、アザレアが今まで住んでいた貸部屋よりよっぽどいい部屋だった。入って正面にベッドがふたつ並んでいて、それぞれの横に小さな鏡台つきの机と丸椅子が設えてある。左手に鍵付きのクローゼットがふたつならんでいた。
「貴重品は鍵付きのクローゼットの中に置くようにしてください。部屋の使い方は自由ですが、私物が共用部分に溢れないようにだけ気をつけて。リネン類は一階で配っているのを各自で自室に持っていって、使ったものは洗濯室に運んでください。このクローゼットの中にあなたの仕事服が入っていますので、明日から着用をお願いします」
そう言われてクローゼットを開くと、自分の持っているどんな服より上等そうな生地の、黒いメイドドレスとエプロンが吊ってあった。働くためのドレスにしては高級そうだ。
「ありがとうございます」
「サイズは標準的なものですが、大きすぎるようなら教えてください」
クローゼットから出して軽くあててみたが、丈も身頃も着るぶんに支障はなさそうだった。鞄をそのままクローゼットに置いて鍵をかけ、部屋を出る。それから一度降りて、この建物の設備について説明を受けた。食事をはじめとして、起床や就寝の時間について教えてもらう。
アザレアが時計をもっていないと言うと、給金をもらったら自分のものを買って返すと約束して、マチルダが今は使っていないというごく素朴なつくりの懐中時計を貸してくれた。基本的に一日二食は食事が用意される上、制服が支給され、毎日沐浴もしていいと言われて、アザレアは願ってもないような好待遇に心底びっくりした。もっと劣悪な環境で働くことも想定していた。しかも魔法で湯が沸かせるので、いつでも部屋であたたかい湯を使っていいらしい。想像以上に贅沢な生活だ。
次に仕事について説明を受けるため、使用人棟から出て本館である公爵邸へと向かう。
公爵邸までは五分ほど歩いたが、途中からは回廊があって雨風を避けて移動できるようになっていた。移動する間にマチルダに気になることを聞いておく。
この屋敷で家令の役割を担っているのは意外にもこの老婦人なのだそうだ。これだけ大きい屋敷にも関わらず、ここに暮らしているのは公爵ひとりきりで家族はおらず、マチルダをはじめとした専用の侍女や侍従たちだけは呼び出しにすぐ応じられるよう、本館の地下や屋根裏に部屋があるのだという。
こんなに広いお屋敷なのに、家族がいないとは驚きだった。なんとなく、うら寂しく年老いた公爵の姿を想像する。
「ここでは、公爵邸の使用人としての節度を守った振る舞いをしてください。今日は旦那様もお客様もいらっしゃらないので例外ですが、本館に立ち入る際は必ず仕事着を着用するようお願いします」
神妙な顔で返事をして、勝手口から屋敷の内部へと入る。狭い使用人専用の通路を抜けて、隠し扉のようなところから出たところが大広間のホールだった。おそらく屋敷の正面から入ると真っ先にここに辿りつくのだろう。本来の出入り口である大きな扉からは赤い絨毯が敷かれ、豪奢な調度品が並び、広間の中央には二手に分かれた大きな階段がある。上った先から左右に廊下が分かれており、階段の壁には大きな風景画がいくつもかけられていた。
アザレアはここまで来て、ようやく他の使用人の姿を見かけた。男女ともに、一様に静かに働いている。皆先ほど見た支給品のドレスと同じものを着ていて、個人の区別はあまりつかなさそうだ。この大階段は基本的に来客か公爵本人だけが使うそうで、使用人であるアザレアたちは使用人通路にある別の階段を使って上階に移動した。
この公爵邸の最上階がおおむね公爵の生活範囲だそうで、自室と執務室と、いくつか客間や応接間があった。執務室の扉の横には、壁が四角にくり抜いてあって、そこに火の灯った蝋燭が置いてある。なんなのかわからず不思議に思っていたが、これは不在の火といって、公爵が執務室にいない時だけ灯るのだとマチルダが教えてくれた。これも魔法らしい。
とはいえこの階は専用の侍従を含め限られた人員だけが配置されるそうなので、アザレアはしばらく立ち入ることはなさそうだった。室内には入らず、配置だけ教えてもらう。
そこから順に下へ降りて行った。蔵書室、娯楽室、客室、応接室、その他にもとにかく部屋が多く、一度見て回っただけでは到底場所を覚えきれなさそうな豪邸だった。アザレアは途中から不安になってきた。
「誰しも最初は覚えるのに時間がかかります」
顔に出ていたのか、マチルダにフォローされてほっとする。
ついでに他の使用人たちの仕事ぶりも見せてもらう。ここまでの屋敷ではないが、地元にいた頃も人の家で働く使用人の知り合いがいて、仕事の話を聞いていた。だいたいどこもやることは同じようだ。調度品の手入れをしたり窓を拭いたり、洗濯、掃除に給仕。忙しそうだが、やることがあるのはいい。物静かだがせっせと仕事をしている仲間たちを見て、案外悪くなさそうな職場だと思った。
「メイ」
マチルダが二階で廊下の窓を拭いていた使用人に声をかけた。
溌剌と返事をしてこちらに駆け寄ってくる。まだ若い女性だったが、一番気になったのは髪の色が薄緑だったことだ。人間だったらまず存在しない色味で、内心驚いた。
「あれ、マチルダさん。この子もしかして……」
「あなたの新しいルームメイトです」
「やっぱり! メイベル・ラスよ。ずっとひとり部屋だったの」
メイと呼んでといって、彼女がアザレアの手をとって笑いかけた。初対面にもかかわらずとても愛想よくされて、自他共に認める人見知りしがちのアザレアはたじろぐ。
「どうも……アザレア・オルセンです。よろしく」
「彼女は今日渡ってきたばかりの人間なので」
それを聞いてメイは驚いて目を瞠ったあと、アザレアを上から下までまじまじと見た。なんだかこの反応には既視感がある。
「本当に? 私、初めて会いました」
「まだわからないことばかりだと思いますから、今日は少し早めに終わっていいので、いろいろと教えてあげてください。あなたも」
マチルダがアザレアに向き直った。
「疑問があれば彼女に教えてもらってください。よく知っているので」
「マチルダさんったら。私がわかることならなんでも!」
「わかりました」
じゃあまた後で会おうね、と言ってメイが手を振るのに会釈を返して、階下へ降りていく。一階の大広間の他、厨房やダイニング、地下の使用人の部屋などを見て回った。途中、マチルダは指示を仰ぎに来た使用人と何か話をしていたが、急な仕事が入ったようで、先に部屋へ戻っておくよう言い渡されて彼女と別れた。
アザレアは迷いつつも最初に入ってきた出口から建物を抜けてまっすぐ歩いていたが、ふと庭先の花が目に止まったので、少し寄り道して散歩していくことにした。
深紅、緋色、淡黄色、薄紅、純白、橙、それに淡い紫まで、見渡す限り多種多様な薔薇の花が咲いていて、風に乗ってうっとりするような芳香が漂う。どちらかといえばハーブのような食べられる植物や、小さな地植えの花の方がアザレアには親しみがあるものの、薔薇の花は嫌いではない。品種や名前には詳しくないが、その美しさには目を瞠った。
薔薇園のあるお屋敷って、ずいぶんロマンティックね。
アザレアは優雅な気分でゆったりと周囲を一周して、ふと、生垣の低い位置に折れかかった薔薇の花があることに気付いた。
自分が前を通った時にうっかりスカートの裾を引っ掛けてしまったのかもしれない。そのままにしておくのもどうかと思い、何気なくそれを手折る。
「え?」
次の瞬間、アザレアは目を疑った。
花が生えてきたのだ。
折った茎の先からにゅるにゅると再び茎が生えはじめ、一瞬で葉と蕾をつけた。
ぞっとして思わず後ずさった。摘んだ薔薇を思わず落とす。さっきまできれいだと感じていた花々が、急に息をひそめた、ぬめる生き物の群れに見えた。
手折られたことなど嘘のように、茎の継ぎ目もなければ、蕾に傷もない。心臓の鼓動が痛いほど早かった。先ほどモーリスが、庭園に魔法がかかっていていつでも花が咲いていると言ったのを思い出す。
これが魔法なのか。
アザレアは震える手で摘んだ薔薇を拾い上げたものの、気味が悪くなって生垣の根本に置き直し、今見たものを忘れようとするように使用人棟へ足早に向かった。階段を登って自分の部屋に戻ってきて、ようやく落ち着いた。
この屋敷に慣れるのには、やっぱり、時間がかかりそうだ。
アザレアは天井を見上げて、はあとため息をついた。
その夜は、メイが仕事を早めに切り上げて帰ってきて、連れ立って夕食へ向かった。使用人棟の一階にも使用人向けの食堂があり、同じ献立の食事を好きに取って、各々自由な席に座って食事をしていく。メイは屈託のない子で、過剰なほどあれこれと世話を焼いてくれたが、これくらいしてくれる方がアザレアにはありがたかった。なにしろ文字が読めないので、ひとりではどこに並べばいいのかもわからないのだ。
スープとパンと、すこしの惣菜という標準的な量だったのだが、アザレアは出されたものの半分くらいしか食べられなかった。これまでお腹いっぱい食べることの方が少なかったので、胃が小さくなっていた。途中で受け付けなくなってしまったのをメイには心配されたが、アザレアはもともとたくさんは食べられないのだと言って謝った。彼女は夜中お腹が空かないようにとパンを一切れもらってきてくれたが、結局それにも手をつけることなく、身を清めてベッドに入った。
メイはシーツの敷き方からよく眠る方法まで余さず教えてくれた後、ベッドに入るとすぐに寝息を立て始めた。今日も働いていたのだし、疲れていたのだろう。
あかりを消した暗い部屋の中で、アザレアはメイを物音で起こしてしまわないように、一度入ったベッドをそっと抜け出した。
自分の鏡台の前の窓を少しだけ開ける。ひっそりとした夜風が、滑り落ちるようにすこしだけ室内に入り込んできた。
馬車の中でモーリスに教えられた通り、夜空は真っ暗ではなくて仄かに白かった。その中で無数の星が瞬き、月がわずかに被るようにして三つ並んでいた。
月が三つもあるなんて。
いかにも異世界らしい光景を眺め、アザレアは深く嘆息した。この部屋の窓は屋敷の裏手のこんもりした森の方へ面している。窓の外には見渡す限り、月明かりに照らされた暗い波のような木立が続いている。アザレアはそれを見るともなく眺めた。
右目の眼帯に手をやる。光にあたると、目を閉じていても痛むので、もう長らく外していなかった。手のひらで隠しながら眼帯をそっと外して、先ほど沐浴で使って干していた濡れたタオルを取って素早く当てる。そのまま瞼をごしごし擦った後、タオルで覆ったまま右目を開けてみたが、何も見えなかった。そのまま慎重に頭に巻き付けてから、その端の部分で眼帯を拭く。
隣のベッドにメイが寝ている気配や、森の中で息をひそめている生き物たちの存在を除いても、広大な敷地の中にあるこの屋敷は、街中特有の喧騒とは対極にある。
静かだった。その静かさが、今はなんだか、しっとりと寄り添ってくれるようだった。
昨日の夜まであの懐かしい貸し部屋にいたのに、なんとまあ、ずいぶん遠くまで来てしまったものだ。何もかも違う世界。
ふと、この光景を、両方の目で見てみようかと思った。
柔らかな闇のベールを透かして見るかすかな月明かりは、包み込むように優しかった。今なら、もしかしたら、大丈夫かもしれないと思わせるほど、静謐な夜だった。アザレアは胸がどきどきした。
一方で、またあの痛みを感じたら、明日の仕事に差し支えるかもしれないと思った。そして結局その心配の方が優って、アザレアは素早く眼帯を付け直すと、再びベッドに入り込んだ。寝台はそこそこ狭いがやわらかく、張りのあるリネンからは洗剤のさっぱりした香りがした。よく眠れそうだ。
ひとまず、昨日までとはまったく違う日々がこれから始まることは疑いようもなかった。
昨日固いソファの上で丸まりながら眠ったことが、アザレアにはもう遠い昔のことのように感じられた。