アザレア
幕間
「失踪した?」
深夜、使用人たちが眠りにつく頃。
モーリスは、三階にあるアスタロトの執務室でマチルダと相対していた。当然、そこにアスタロトの姿はない。話があると言った後、マチルダは誰にも聞かれるわけにいかないと言って、この時間、この場所を指定したのだ。暗闇の中で、お互いが持ち寄った蝋燭のあかりだけが煌々と揺らめいていた。
「失礼。私の聞き間違いでなければ……」
「聞き間違いではありません」
マチルダがポケットから手紙を取り出して、モーリスに渡した。
「二日前に、旦那様は突然姿を消しました。朝、寝室に侍従が入った時にはもういなかったそうです。これは執務室の机の上にあった旦那様の置手紙で、しばし不在にすると」
走り書きではあるが、たしかにアスタロトの字に違いない。便箋もインクも専用のものだ。内容もマチルダが言った通りで、心配いらないとある。モーリスはそれをじっくりと見た後、丁寧に折り畳んでマチルダに返した。
「使用人たちには知らせていないんですね?」
「ええ。心配無用とあるので、皆には長期の出張だと伝えています。旦那様の配下も、今は任務に就いていてどなたも戻っていません。諜報員のあなた以外」
「状況だけ見たら別段おかしなところはないと思うが」
「そうでしょうね。私も本当は言うつもりはありませんでした」
「というと?」
含みのある言い方だった。マチルダは、これが私の勘違いであればどんなにいいか、と言って、目を伏せて言葉を絞り出した。
「薔薇園の端で、花が枯れ始めていると、庭師から報告が。私も直接見に行って確かめました。……屋敷にかけられた旦那様の魔法が、弱まりつつあるようなのです」
「それは」
モーリスは驚いて言葉が継げなかった。
「……異常事態だ」
「はい。こんなことは、今まで一度もありませんでした。旦那様に何かあったとしか思えません。私ひとりでは判断しかねています」
モーリスはしばし沈黙した。
公爵邸の薔薇は枯れることがない。アスタロトの魔法によって維持されているからだ。
そもそも公爵邸自体が特に濃い魔力の磁場の上に建っていて、いわゆる『地脈』だが、この特性を利用して屋敷の全域に魔法を行き渡らせている。アスタロトという大悪魔の――その魔力を受けいれる肉体である『器』の実在を伴って――存在によって安定的に稼働するよう構築された、美しく半恒久的な機構だ。
永遠に枯れぬ薔薇園はその最たる象徴。それなのに。
薔薇園が枯れるとは。屋敷にかけられた魔法が完璧に維持できないほどにアスタロトが弱っていることを意味していた。弱る? 想像すらできない。モーリスにとって、誰より圧倒的で誰より強大な主が、生命維持すら危ういほどの危機に瀕しているというのか? 想像していたよりずっと悪い事態に、手に汗が滲む。
なぜだ?
なんらかの脅威から逃れるために失踪したのだろうか?
序列三位の大悪魔を追い詰めるなど、一体、誰にできるというのだ?
モーリスは焦った。
「二日前、いなくなるまでは、様子はどうだった?」
「いつもと変わりありませんでした。私の知る限り。何か脅威を感じている様子ではなかった」
「中央区からは何も?」
「ええ、今のところは。旦那様からも、何も」
マチルダもまた、どうしたらいいのか途方に暮れているのだとわかる。
「ともかく、屋敷の方はいつも通りにやらせています。皆には悟られぬよう」
「だが薔薇園に影響が出始めているなら、いずれ屋敷にも波及していくはずだ。一体、どこへ行かれたのか……明日から、屋敷内に何か手がかりが残っていないか、探してみます。あなたは引き続き、使用人たちの監督を。何かあれば教えてください」
「ええ」
「あなたの言った通り、これは、ただしく失踪でしょうね」
不穏さを打ち消そうと画策するするふたりを嘲笑うように、蝋燭の向こうの闇が、一段と濃くなった。